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温井和佳奈

怒鳴りブン殴る父と絶対服従の母の関係が、私の「ライフワークの発見」になった話

子供の頃に理不尽を感じたことが、今の私のライフワークになっている不思議な話。今日は母が生きて入れば83才の誕生日。母と父の仏前に、お花とケーキを供えた。

二人の遺影を眺める。なんだかんだと60年も一緒にいた二人。父は昭和1桁生まれのオレさま亭主関白。私が幼い頃の父がよく言っていたことは

「オレがカラスの頭は白だ、と言ったらお前らは、ハイ、そうです、と言え」

「え?なんで?」と質問しただけで、怒鳴られるかブン殴られる。今で言うDVというのとも違うが、DVの一種だったかもしれない。

母は、華やかでチャーミングな人だった。近所の仲良しのお友達が会社をやっていて、少しだけ仕事を父に内緒で手伝っていた。母は生き生きとして楽しそうだった。しかしある日、父がそれを知り「バッカモーン!すぐにやめろ」という。母はかなり頑張って父と話そうとしたが、ブン殴られそうになり、あきらめた。

そんなある日、小学生の私がやりたいことを母に話した。母は結婚前は貧乏で、結婚後は父に止められるのでやりたいことができなかったから、私のやりたいことは応援すると約束してくれた。そして父に話すと

「ばっかもーん!ダメだ」の一言。

「ママは応援すると言ってくれたよ」と母をみる。母は父の説得を試みてくれたが、父は全く聞く耳持たず、また怒鳴り&ブン殴りが出そうな気配になった。

「・・・パパがダメなら、仕方ないわね」と母が言った。

「・・・あのさ、ママの人生ってなんなの?パパが言ったら絶対服従なんだ。なんだそれ。私との約束はどうなるの?それって一体、どんな生き方なの!?」と涙をためながら怒りに任せて言ってしまう。そして私は、父にブン殴られた。

母が無言なので、振り返って見たら、母の目から涙が、、、母を泣かせてしまった。この暴言は、今でも私の後悔するところで、かつ昭和の男たち(うちの父だけかもしれないが)の女性に対する扱いが、子供ながらに納得がいかなかった。

「誰が稼いでいると思っているんだ」が口癖の父に、私は子供の頃に「アンタが母の仕事を反対したからでしょ」「絶対に私は、自分で稼いで男の理不尽な要求にはのるまい」と言うとブン殴られるので、心の中で何度となく罵り誓った。

ある日、小学校の図書館で年鑑を見ていた。私はそこで「アフリカの貧困」の写真に釘付けになってしまう。栄養失調でお腹の膨らんだ子供、ハエが目に顔に体に集っている。なんという理不尽な世界があるのだろう。私は自分の家庭が理不尽すぎると思っていたが、比較にならない。

中学になり、夏休みの自由研究に「アフリカの干ばつと貧困」という題でレポートを作った。英語や他の強化の宿題は一切やらなかったが、貧困問題だけは一生懸命まとめて気が付いたことがあった。「貧困の歪みは女性と子供にいく」

家に帰り、両親をマジマジと見る。もしも日本が、家がアフリカ難民のように貧乏だったらと仮定する。父は経営者で稼いでいたし面白いところもあったので、怒鳴る&ブン殴るがあっても、歪みはそんなには出なかった。しかし、これでお金がなくてこんな理不尽な思いをさせられる毎日だったらと思うと、大変だと思った。

そして、改めて心に誓った。「経済的に自立する女になる」そして貧困エリアの女性に「生き方を選択できる」何かをしたいと。

しかし、ここから私はそれを、ずっと忘れて人生を楽しく過ごす。(経済的に自立する女になることは、かた時も忘れなかった)そして、それを思い出したのは、なんとアラフォーになってから。

そこから私は、大学で勉強したエリアである東南アジア、カンボジアに渡り、ライフワークとして、脇目も振らずに打ち込み、気がつけば10年が経っていた。

コロナで世界の動きが止まって、改めてなぜカンボジアに行ったのかを振り返ると、父と母の関係が原点にあるのだなと思った。父母の関係が、レディファーストだったら、私はカンボジアには行ってないかもね。

子供の頃、父の理不尽さが嫌でたまらなかったけど、その延長線上に、ライフワークをやれて幸せを感じている自分がいる不思議さ。

自分のミッションはなんだろう?と思う人は、子供時代に許せなかったこと、理不尽だと思ったことを思い出してみて!

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